see/pass you again

Feb 24

彼女の自動再生装置(『傘をひらいて、空を』番外編。長すぎるし暗いので放流。)

いつものようにお昼ごはんを食べながら後輩が言う。私と同期だったカサハラさんって覚えてます?私は内心の動揺を気取られないようにうなずき、総務の子ねとこたえる。覚えてるよ。

カサハラさんはひかえめな女の子だった。人の顔色に聡い、いつも緊張しているような印象を与える女の子だった。女の子という呼びかたがふさわしい年齢で入社して、一年もたたないうちに辞めた。今はもう誰も彼女のことを話題にしない。彼女と個人的に親しかった人は、もしかするといないのかもしれない。私だって親しくはなかった。

でも私は個人的にカサハラさんのことを忘れることができない。一生できないかもしれないと思う。後輩はそうそうそのカサハラさん、と言い、ちかごろ持ち歩いているサーモスの魔法瓶をかたむけた。ほうじ茶の香りがした。

カサハラさんはできのいい女の子だった。教えることがないと、彼女の指導役の総務の人が言っていた。なんでもできるんだ、飲みこみがすごく早い、そつがない。けれども半年を過ぎたころ、彼女の仕事は極端に遅くなった。夜おそくまで残って(仕事を家に持ち帰ることができないシステムなのだ)、それでも繕いがたい状態になった。彼女の仲間たちは彼女をかばった。けれども彼らだって彼らの仕事をしなくてはならない。彼女のうわさは他部署の私のところにまで静かに聞こえはじめた。

その日、私はへまをして、遅くまで残らなければならなくなった。やっちゃいましたねえ、マキノさん。私はそうつぶやき、なんとなく廊下を歩いた。総務のある部屋の灯りがついている。ノックしてからひらくと、カサハラさんだけがいた。カサハラさんはびくりと顔を上げた。私は彼女を怯えさせてしまったことを申し訳なく感じて、ねえこっちに来ませんかと言った。うちももう誰もいないんですよ、データ持って来ませんか、私ひとりで、ちょっと怖いし。

彼女はあいまいに笑って私の席の近くで作業をはじめた。しばらくキータッチの音だけが響き、私は化粧室に立った。なんであの子あんなに緊張してるんだろ、と私は思った。私の視線が彼女の座った席の近くを軽くなでるだけで反応する。あんなふうに緊張していて、疲れないのかな。
戻ると気配が薄かった。誰もいないのかと、一瞬思った。けれども彼女はいた。彼女の横顔はさきほどとまるでちがっていた。ほとんど恍惚としているような、浮いた顔をしていた。幽霊、と私は思った。人の気配がしなかった。彼女は、そこにいるのに。

呆然と見つめていると彼女の細い指が動く。ウインドウの色が変わる。Excelのセルのすべてが選択される。そこに打ちこまれた丹念な数字のすべてが、消えた。彼女は幽霊の顔のまま指を動かす。
私はとっさに無言のまま彼女の手を押さえた。消去の操作。私は彼女から奪ったマウスでそれを取り消す。数字たちが帰ってくる。私はほっと息をつく。彼女は私を見た。幽霊が濃くなった、と私は思う。でもまだ尋常ではない。
消しちゃ、だめだよ、と私は言う。いっしょうけんめい、してたのに、無駄になってしまうでしょう。私がようやくことばを出力すると、彼女は透明な目で私を見て、消したんですか、私、と言う。

消していましたよと私はこたえる。覚えていないの。疲れているんじゃないかな、もう帰ったほうがいいですよ。言い聞かせながら私は思う。このひとはもしかして日ごと夜ごとこんなことを繰りかえしていたのではないか。

マキノさんやさしいんですねと彼女は言う。マキノさんどうしたんですか。みんなどうしたんですか。私、こんな、役立たずなのに。給料泥棒なのに。こんなに、みんなに、よくしてもらって、そんなの、まちがってる。
私はぞっとする。私はこの感覚に覚えがある。人なみにあつかわれると落ち着かない、思いやりの理由がわからない、そして、自分のしたことを、いつのまにか台無しにしている。
私はそのような人をほかにも知っていた。子ども、と私は思う。

この場合の「子ども」は、言動が幼いとか考えが浅いとか、そういうのではない。自分を「受苦者」のポジションに置く人のことを、「子ども」と言っている(昔なにかで読んだせりふだ。子どもというもののひとつの側面を見事にとらえたことばだと思う)。当人は苦しくなんかなりたくないと思っているのに、まるで機会をうかがっていたかのように、絶妙なタイミングで、みずからを人に責められる立場に置いてしまう。オートマティックに、そうしてしまう。

消さないでと私は繰りかえす。おねがいだから、あなたの仕事を消さないで。みんなあなたが好きなの、あなたはいい子だしこの会社のいい従業員なの、だから消さないで。

彼女は不思議そうな顔をして言う。マキノさんどうしたんですか。データを消さないでと私は言う。私そんなことしてないですよと言って、彼女は笑った。笑う幽霊、と私は思う。幽霊は言う。私ただ能力がないから仕事が終わらないんです、マキノさんどうしたんですか。
私にはどうしようもなかった。彼女はほどなく会社を辞めた。
彼女がどうしてそのような静かで破滅的な行動をとるのか、私にはわかる。彼女のなかにそのような装置が埋めこまれていて、表層の意志と関係なく作動し、たくみに彼女をその場所にとどめるのだ。

ある種の人にはそのようなことが起きてしまう。彼らは過去のあるとき苦しみを享受するだけの立場にいて、そしてそれをみずから繰りかえしてしまう。なぜ彼らは受苦者であることから抜け出せないのだろうと考えてみたことがある。そのとき、私の頭は私をうんざりさせる推測を出力した。

それは彼女たちがほんものの子どもではないからだ。ほんものの子どもは受苦者でなくなることを心底から望み、適切な環境があれば順等に成長して受苦者であることを脱する。彼女たちはそうではない。彼女たちは受苦者としての生き方に適応した。彼女たちは可塑性をうしなった、老いた子どもであり、だからそこから出ることがない。
そんなはずはない。他人の望ましい変化の可能性を否定していいはずがない。自分のだってだめだ。

でも目の前の後輩が不吉なことを言う。カサハラさんが結婚したって、このあいだのお正月に年賀状もらって、それで、なんか気になっちゃって、連絡してみたんですよね。
私はもはや私の感情を押しとどめることができない。カサハラさん殴られてるんでしょう。拳で、でなければことばで。私のそのせりふか、声音か、表情か、おそらくそのすべてが後輩を驚かせる。そうです。なんかすごいふつうのことみたいに言うから私びっくりしちゃって、どうしてわかったんですか、そんなことより先輩どうしたんですか、だいじょうぶですか、この世の終わりみたいな顔してますよ。


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