閉店近くまで飲んでいたら最寄り駅までの電車がなくなっていたので別の駅から三十五分歩くことにする。深夜の繁華街の人を眺めて少ないねと友だちが言う。地震のあとに人が減って戻りきらないみたいだねと私はこたえる。でもこれだけの人がいて真夜中までいいだけ飲めるんだから豊かなんだよ、きっと。
友だちは深夜バスに乗り、私はJRに乗り、十分歩いたところで四十五分歩くコースに切り替えて深夜営業の書店に寄る。書店は明るく実用書と雑誌とベストセラーの小説がたくさん並んでいる。好きな作家のエッセイがあったので買い、音楽も借りようかなと思う。書店はレンタルビデオ店の一部で、だからもちろん同じ建物に大量の音楽や映画やテレビドラマがあるはずだった。豊かだなあと私は思う。遠くにいる人に手紙を書きたいと思う。こんなにも過剰に豊かで東京は夢のようです。いつかすべてが破綻したあとにこの深夜のTSUTAYAについて思い出すような気がします。過剰な灯りと、過剰なコンテンツと、回遊する熱帯魚めいた人々について。
エイフェックスツイン好きなんですかと訊かれたので最近、とこたえる。誰かに勧められたんですかと言うので友だちにとこたえる。何人かで延々と車に乗って出かける用事があって、だからたくさん音楽を聴くことになって、そのうちのひとつでした。ふだんはそんなに音楽を聴きません。
コーヒーを飲みませんかと言うのでいいですよと私はこたえる。コーヒーを飲んでいるとどうしてと訊くので退屈だったからと私はこたえる。まだ眠くないし、さっき買った本の作者の小説が私はすごく好きなんだけど、今日のはエッセイだから、今すぐ読みたいというほどではないから。それにここには人がたくさんいるしあなたは弱そうだから私に危害を加える意志があったとしても鞄で殴って逃げればいいし。
そのように説明すると彼はひどく笑っていつもそんなこと考えてるのと訊く。考えていますよと私はこたえる。いつも。誰にでも。
どうしてを返しましょうと言うと彼は失恋したからですとこたえる。大学のサークルの女の子なんだけど、一年くらい好きで好きでしょうがなくて、あんまり好きなんでばれないようにミスリードしてたらほんとに全然ばれなくてまずいと思って告ったら適当にキープされちゃって、去年のクリスマスに彼氏ができたことが発覚してですね、ほんとFacebookとかろくでもないですよね。成人式の写真百枚くらい見ちゃったよ。かわいかった。それで同じ講義とってるつまんない女の子と寝てしまいました。あんなつまんない子とやっちゃったってみんなにばれたらどうしよう。
私も笑って青春ですねえと言う。でもだいじょうぶ、そんなの十年経ってもぜんぜん変わらないから。大人になってもみんなみっともなくうろうろしてとてもぶざまです。
失恋したから生活のあらゆる場面で人々に声をかけるというのはとてもいいですねと私は言う。悪くない方途です。世の中には退屈な大人や子どもがたくさんいるから話を聞いてもらうといいですよ。大学生だったらアルバイト先の人とか先生とかもいいんじゃないかしら。私も昔よくそうしていました。
呆れた、と彼は言う。僕は話を聞いてもらいたくって人に声をかけてるんじゃないですよ。好きな女の子をくだらない男にもってかれて男性としての自信が粉々になったから俺まだいけると思いたくって声かけてるんですよ。おっさんとか子どもとかどうでもいいよ。
私は遠慮なく笑って男性としての自信、と繰りかえした。半分子どものくせになに言ってるんだか。好きな相手と親密になる前に断られている人のせりふじゃありません。たましいのいちばんおいしいところを交換して交換したものが腐って指の間からこぼれ落ちたあとにもう一度言ってご覧なさい。
彼はいじけた顔で谷川俊太郎とつぶやき、失恋直後にそんなハートフルなもの読みたくないねと言う。じゃあ何を読んだのと訊くとよりによってカフカの城を読んじゃって失敗した、あれはあきらかに失敗だった、僕Kっていうんですよと言う。イニシャルだけじゃなくって名前がケイ、慧眼の慧。私がその名前を褒めると美しい字でしょうと少し胸をはり、本名だよと言って学生証を取りだす。偽名だってかまいません、あなたの名前がカフカくんでもちっともかまわない、得体のしれない人に簡単にIDを見せるものじゃありません。そう忠告すると彼はもう一回いじけた顔になり、大学の名前を自慢したかっただけなんだけど、と言う。私たちはそれからカフカとプラハと田村カフカについての話をする。
帰宅してベッドに入りiPhoneを見ると年嵩の友人からメールが入っている。Twitterはやめましたと書いてある。離婚した元夫がどうもそれを見ているようで、私の個人的な知りあいを次々にフォローしていろいろ聞いてまわっているとのことです、あなたのところにもなにか行っていたらごめんなさい。
十年経っても、と私は思う。十年経っても私たちは今と同じように、十年前と同じように、みっともないままなんだろう。彼女の元夫が特別にみっともないわけじゃないんだろう。 SNSで自分から去った相手の新しい伴侶を探したりするんだろう。サヤカはまだ子どもねと言って私の頭を撫でていた彼女の中にも、きっとそれはあるんだろう。そう思って返信メール作成の画面をひらき、そのことについて伝えるための最初の一語を探す。