憎悪の発見
「傘をひらいて、空を」『憎しみを捨てる』第一稿。陰惨すぎるので語り手を「彼」から「上司」に改稿しました。そしたら一行も残らなかった。
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同期の青木が書類を持って彼の横を通りすぎようとした。そういえばもう青木ではないはずだった。彼はデスクの上の厚いファイルを両手でつかみ彼女の頭を横ざまに薙いだ。鈍い音がした。文房具もそれなりに凶悪な使いかたができる、と彼は思った。彼女は消えた。彼は安らかな気持ちになり、作業に戻った。スマートフォンが会議十五分前のアラームを鳴らした。
彼はアラームを止めて上半身を起こす。会社にいるのではなかった。起床して支度をするところだった。彼はファイルについて考えた。それはたしかに彼のデスクにあった。出社したらしまっておこうと彼は思った。気に障る夢だ。
上司と立ち話をしているとその顔がどろりと溶けて青木の顔になった。彼はこぶしでそれを潰した。それはあっけなく崩れ、からだごと彼の足元に落ちた。念のため何度か踏みつぶした。素手でするんじゃなかったと彼は思った。湿った感触が不快だった。彼は幾重にもティッシュペーパーを重ねてそれを処分した。手を洗いたかった。洗面所がなかった。どこまで行ってもそれはなかった。右の手の指のすべての関節に毒のある虫の体液がついていた。
どうしましたと上司が言った。彼は上司を見下ろした。気遣わしげな丸顔。なんでもありませんと彼は言った。少し疲れていませんかと上司は尋ねた。少し疲れているかもしれませんと彼はこたえた。体調管理が甘くて申し訳ございませんと言った。そういうんじゃないのよと上司は言って、ほほえんだ。上司は人に気安く見られたいとき意図的にことばを崩し近所のおばちゃんみたいな顔をしてみせる。部下をうちの子、と言う。気に障る。子どもを産んで戻ったとたんにこれだ。出産なんて雌犬にもできる当たり前のことだろうに。子どもを放って深夜残業も休日出勤もしてるくせにいっぱしの母親面か。笑わせる。
目をひらくと隣で青木が眠っている。彼女はひと月と少しのあいだ、週末ごとに彼の部屋に来ている。彼氏とくっついたり離れたりしているので、離れているあいだ暇だったのだろう。彼にしても悪い話ではなかったので、適当に相手をしていた。
彼は静かにベッドを出てベッドサイドのごく小さなテーブルの、スチールの足をつかむ。天板が縦になる向きで彼女の頭にふりおろす。歯が割れる音がした。彼女の下の前歯は少しがたついていて、彼女はそのことを気にしていた。彼は何度かテーブルをたたきつけ、完全にそれを砕く。醜いものがなくなってよかったと思う。
彼は静かにベッドを出て水を飲む。彼はもちろんひとりだ。彼女が彼の部屋に来ていた十二月は今のこの十二月ではない、と彼は思う。フローリングの床はやわらかい。グラスをつかんだ指先はベッドに置き忘れたように遠い。そんなに悪い気分ではなかった。ひとに心配されるようなことではなかった。でも話しておこうと彼は思った。作り話をしてやろう。上司は他人に頼られるのが好きだ。機嫌をとってやろう。青木さんが結婚しちゃったのがショックでと言おう。それで会社で少しぼんやりしても見過ごされるだろう。
目をひらくと彼が鬼のような形相で彼に机をふりおろすところだった。叫ぼうとひらいた口のなかの歯の折れる音がした。痛みはなかった。何度も何度もそれは落ちてきた。目をひらいたままだったので彼の顔が見えた。それは醜く歪んでいた。気の毒にと思った。そんなになって、気の毒に。
彼は目をさましてくちびるをひとつ撫で、歯がぜんぶあることを確認する。あの顔、と彼は思って、苦笑する。ひどい顔だったな、俺の顔だけど。彼はたわむれにバスルームに向かう。鏡のなかには感じのいい男の顔があるだけだ。彼は鏡にむかってなるべくひどい顔をしてみせ、それから笑う。誰かにまた作り話をしようと思う。同期の青木さんが結婚しちゃったのがショックで、夢ばかり見るんですよ。すごく好きだったのにつまんない男と結婚しやがって、憎らしい。