December 2009
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家に帰ったら、部屋の真ん中に知らない女の人が立っていた、と彼は言った。
「ああ間違えて隣の部屋に入っちゃったんだな」と思ったそうだ。 でも自分で鍵をあけて入ったところが隣の家であるはずがなく、だいいち内装がどう見ても自分の部屋であり、数秒後、彼はやむなく「ここは間違いなく自宅だ」と認めるに至った。 女性は蒼白な、思い詰めた顔をしていた。そして右手に(彼の晩酌用の)スコッチの瓶を握っていた。
彼は「撲殺される」と思った。相手は知らない人だし、無断で家に侵入された自分はどう考えても被害者なんだけれども、それに彼女は小柄で華奢で、自分はわりあいに腕力のある男だけれども、そういうことの一切は問題ではなく、殺される、と思った。 戦うとかそういう発想は出てこないよ、俺はそこで圧倒的な恐怖というものを知ったね、よく犯罪被害に遭った人に対して「逃げられたんじゃないの?」みたいな...
大勢の関係者が集まって仕事をして、ほとんど全員が打ち上げに参加した。 みんなそれなりに疲れていた。時間が経って、夜中になって、表面上の盛り上がりはそのままに、うっすらと倦んだ空気が、広い会場のあちこちに生まれていた。
その隅でなんとなく向かいあっていた女の人が、独りでいるととやかく言われるから困ります、と言う。 だって、
そんなにしょっちゅう人を好きにならないです、私ふたりでもいいけど、ひとりでもいいです、なのにみんな、「前の彼氏と別れてどれくらい?けっこうたつんだ、それならそろそろ」って言うんです、どうしてでしょう、そのうち誰も相手にしなくなるからかしら、それならそれでべつにいいじゃないですか。
私は、その通りですねと言う。
実際のところ、新しく誰かを好きになるなんて、滅多に起きない大事件ですよね、好きになってもなかなか思う通りに仲良くなれないこともありますし。...
最近読んだ本の話をしていたら、ふだんは小説を読んでいる人が、「吃水都市」は良かった、と言う。
なんでまた突然詩集なのか、女の人に振られたのか、と訊くと、そうだと言う。僕はそういうところはまったく乙女なんだよ、振られると詩集とか読むんだ、こんなでかいおっさんが実はそんなリリカルなやつだなんて、なかなか言えないけどね、と言う。 彼は身長が百八十センチを超えていて、ちょっと運動すればすぐ筋肉がついて、仕事のしかたが冷酷で、三十代で、ふつうに見ても「睨んでいる」と解釈される目つきをしてる。
だからといって、乙女的なモジュールを格納していてはいけないということはない。 彼は彼の性質の求めるところにしたがって、ときには存分に感傷的な振る舞いをすべきだ。そうして人々はそれを黙殺したり冷笑したりすべきではない。...
そのことを明確に意識しはじめたのは、大学を出たころだと思う。私の頭の中には、一緒に食事をとっている人が唐突にいなくなるというイメージが強くこびりついている。
テーブルをはさんで向かいあって、ごくふつうに食事をしている。途中で相手が、ちょっと、と席を立つ。食事は途中で、いかにも化粧室に立ったようなそぶりだ。 そうして二度と戻ってこない。
原因になりそうな経験はとくにしていないんだけれど、どうしてかこのイメージはずっとどこかに保持されている。 人と食事をしていると、時折、五分先の未来を予測しているかのように、そのイメージが頭の中に展開される。周囲の音が少しだけ遠ざかり、視界がなんとなく平坦になるような、心許ない感じがする。不穏でありながらふわりと浮きたつような、特有の心もちになる。
...
久しぶりに会う人への質問の定番は「あれからどうしてた?」「家族(恋人、共通の知人)は元気?」などだ。それから、相手の趣味によって、「ちかごろ何を読んだ?」とか「どんな映画を(展覧会を、舞台を、スポーツの試合を)観た?」という質問が入る。 加えて、「最近なにを楽しんでる?」という質問もよくする。 先週末はそれに対して衝撃的な回答を得た。 「最近楽しんでいるのはムーンウォークの練習だね」 「だってムーンウォークができたら愉快だと思わない?すごく誇れる。宴会芸を要求されてももう困らない。しかも一人で部屋で練習できて、道具も要らない。冬の休暇にはぜひ毎日練習したいと思う」 私がげらげら笑っていると、彼は澄ました顔で、なぜ笑う、と言った。私はもっと笑った。 「ちょっと検索してごらん、ムーンウォークに挑戦している人は世界中にうようよいる。日本語の説明や動画もいっぱいある。...
知りあいと食事をしたら、実に気持ちよさそうに二人前くらい平らげるので、そんなふうに食べてなんで太らないのかと訊いた。運動してるから、というあっさりした答えが返ってきた。もっともだ。 私は運動不足でおなかがぷよぷよして困っている、と言うと、彼は簡潔に、腹筋しろ、と言った。 彼は連日夜中まで働いているのに、帰宅後にきっちり筋力トレーニングをしているのだという。 どうしてそんなことができるのか。めんどくさくないのか。今日はまあいいやとか思わないのか。
「そりゃめんどくさいよ。だから仕事の一部だと思えばいいんだ。仕事は行くだろ、とりあえず」 行くよ。それが当たり前っていうか、しょうがないからね。
「しょうがないからでいい。筋トレなんて、あんなもん楽しくなることはたぶん永遠にない。でもほかにもしょうがないからやってるものはいくらでもあって、わりと平気でこなしてるじゃないか」 そりゃそうだ。...
何人かでお酒を飲んでいると、一人が突然あー!と言うので、何かと尋ねたら、「俺、こないだ余所の子をぶっちゃったんだよ。軽くだけどさあ」と言う。 その場にいた全員が彼を見たのは、唐突な叫びに対してではなく(彼はわりとよく叫ぶので、みんな慣れている)、「自分の子への体罰も望ましくないのに、余所の子に手を挙げるとは何ごとか」という驚きのためだ。 私はとりあえず黙っている。私は家庭を持っていない。子どももいない。想像の材料が少ない。だから黙っている。
「俺と嫁さんは、娘からちょっと離れて歩いてたんだよね。公園で。子どもってわーって走るだろ、芝生とかあると。それをなんとなく追いかけてたわけ」 よくある光景だ。 「そしたら余所の子がうちの子のとこに行って、いきなり蹴った。あの蹴りは本気だった。娘はびっくりしてた」...
さっきね、知らない人にぶつかって、死ねババア、って言われました。ムカつきました。 そう言うと彼は、 「そういうことって、ときどき起きるんですよね」 と言った。 「僕にもあなたにも、その種のことを言われる可能性はけっこうあります。でも、そんなので、死んでは駄目です」 まさか、と私は言う。まさか、知らない人に死ねって言われて死んだりしないです。 「それは、今あなたが健康で、人生を楽しんでいるからだ」 「もしも具合が悪くて、何も楽しくないときに死ねと言われたら、どうしますか。生きてても死んでてもどっちでもいいやと思ってるときに言われたら、引きずられるんじゃないですか」 「言うほうはたぶんなにも考えていない。年長の女性が自分に都合の良くない行動をとったら反射的に死ねババアと言う人はいっぱいいる」...
さようなら、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら...
– アン・リンドバーグ (須賀敦子『遠い朝の本たち』より) (via refrainrefrain)
私は九歳の子どもで、誰かに連れられて病院にいて、みんなが私に幼児に話しかけるようなことばを使う。 私はひどく腹立たしく、どうして彼らは私にまともな礼儀を適用しないのかと思う。どうして勝手に話してばかりで、私に私自身に関する意見を求めようとしないのか。私にしてほしいことを、きちんとした言葉遣いで説明しようとしないのか。 でもどうしてだか私は、どんなにがんばっても口を利くことができない。 私は九十を過ぎたおばあさんで、車椅子に乗って、みんなが私に幼児に話しかけるようなことばを使う。 私はひどく腹立たしく、どうして彼らは私にまともな礼儀を適用しないのかと思う。どうして勝手に話してばかりで、私に私自身に関する意見を求めようとしないのか。私にしてほしいことを、きちんとした言葉遣いで説明しようとしないのか。 でもどうしてだか私は、どんなにがんばっても口を利くことができない。...
どうやらみんな毛穴までよく見える明るい蛍光灯の下で味気ない色を放っていますが、もうちょっと世界は、薄紫掛かっていなかったっけ。逆光では人の顔は良く見えないほどに深...
– 2009-12-04 - とろけるあめ
ayayaya:
seepassyouagain:
眠れなくて退屈だから、好きな美術作品を挙げる。()は観た場所。 ジェームズ・タレル「オープン・フィールド」(地中美術館)。何も考えずに入って何歩か歩くだけで世界が目の前で反転する、現代の魔術。軽い恐怖のスパイスがよく効いてる。 アンゼルム・キーファー「シベリアの王女」(名古屋市美術館)。清冽さと哀しさの、抗議したくなるほどの親和性。ダイレクトに内臓に届く暴力的な叙情。 秋野不矩「赤いストールの女(?ターバンだと思ってたんだけど、ターバンなわけないよね。頭から被ってる絵ではあるんだけど)」(たぶん秋野不矩美術館。何度か行ったのに一回しか観てない気がするから、別の場所かも)。率直な生命力の表現が嫌みにならないことの希有。商品化からも恨み節からも解放された女性性に救われる思いがする。...
眠れなくて退屈だから、好きな美術作品を挙げる。()は観た場所。 ジェームズ・タレル「オープン・フィールド」(地中美術館)。何も考えずに入って何歩か歩くだけで目の前で世界が反転する、現代の魔術。軽い恐怖のスパイスがよく効いてる。 アンゼルム・キーファー「シベリアの王女」(名古屋市美術館)。清冽さと哀しさの、抗議したくなるほどの親和性。ダイレクトに内臓に届く暴力的な叙情。 秋野不矩「赤いターバンの女」(たぶん秋野不矩美術館。何度か行ったのに一回しか観てない気がするから、別の場所かも)。率直な生命力の表現が嫌みにならないことの希有。商品化からも恨み節からも解放された女性性に救われる思いがする。 パウル・クレー「忘れっぽい天使」(ノルトライン・ヴェストファーレン州立美術館)。信仰がなくても感じられる「天使」。あまりにも自然に理知と無垢が同居していて、観たあとでもうまく消化できない。...
電話をとると、空港のアナウンスが聞こえた。 「久しぶり、元気?」 クリアな音声だった。 元気だと私は答え、今から行くの、と訊く。
「ううん、これから日本」
調子はどう、と訊く。
「良くない、うん、とても良くない」
何が良くないのか、訊く。 「仕事とか仕事とか仕事とか」
歌うように彼は言う。 いろいろな会社に雇われる「傭兵」であるところの彼は、勤務先から家族的な心遣いを貰うことがない。 だから彼は私の知る限りもっとも純粋でもっとも重篤なワーカホリックだった。会社のくれる帰属感ではなく、ただ自分の執りおこなう仕事のプロセスと、その成果としての賞賛だけに依存している。
「きつそうだね、でもそれが少し気持ち良かったりする?」 と私は訊く。
「そうだよ」
楽しそうに彼は答える。熱にうかされた人の声。...