see/pass you again

Nov 22

そのとき私は十九で、ファミリーレストランでアルバイトをしていた。
お客さんが怒ったので、私は謝った。お客さんはわりとすぐに許してくれた。

レジに戻ると、一部始終を見ていた副店長(早朝と深夜に入るとこの人が店を監督していた)が、
「謝るのが上手だね」
と言った。

「でもそれはあまり良いことじゃないな。まだ半分子どもであるような年なんだからね」

よくわからなかった。

それから十数年が経って、私はもう大人なのに、謝るのはあの頃より少し下手だと思う。
そうしてそれは、なかなか悪くないことだと思う。



飲み会で正面に座った老学者が水を向けたので、少し研究の話をした。彼はいかにも無難に、なるほど興味深い、と言う。それから、お一人ですかと続ける。
そうですと私は答え、それから、おじいさんだから多少のセクハラは許してあげなきゃいけないなと思う。結婚していないことを非難する言葉の選びかたは、年が上の人ほど遠慮がない傾向にある。

「いいですねえ。選び放題ですねえ」

目の前のお年寄りがそう言ってふっふ、と笑うので、私は拍子抜けした。

「女の研究者というのが私は好きでね。任期つきはきついですが、がんばって続けてくださいよ。
どうも男はね、いまだに大半が『妻子を食わせてやらなきゃいけない』なんて肩肘張って、そんなの良い仕事の邪魔にしかなりゃしません。もともと金になる仕事じゃないんですが、どうもあれですね、そう思うことが彼らにとって必要だったりもするんでしょう」

「その点、女の研究者はいい。男には手前で稼げと言っておいて、自分の食い扶持と、欲しかったら子ども一人分くらいを稼げばいいんですから。変な我慢をしないで意義のある仕事ができる」

私は意義のある仕事を志すような立派な人間ではないし、次の仕事がなかったら別に研究職じゃなくてもいいやと思っているんだけれども、相手は偉い人で、気持ち良く酔っぱらっているみたいなので、とりあえず頷いておく。
それから、私もやっぱり酔っぱらっていて、おもしろいおじいさんだなと思ったので、こう言ってみた。

「私、当分ひとりでいようと思ってるんです。もしかするとずっと。気合いと根性で、いけると思うんですよ」

健康の秘訣は何ごとにも距離を置くことだ。
恋ははかなく、犬猫はすぐ死ぬ。仕事は任期つきだ。入れこむと後がつらい。
徹夜で仕事して二年後に「はい左様なら、あなたの研究ごっこに意味なんかありませんよ」ということになったら、目も当てられない。
どんな対象にも節度ある態度を心がけるべきだ。好きなものは、にこにこして遠くから眺めていれば良い。野良猫には餌をやらず、たまに撫でるくらいにしておいて、姿を消しても平気でいなくちゃいけない。野良猫は平均して三年も生きない。三年なんてすぐだ。
趣味にだって没頭してはいけない。常時二、三種類を用意しておいて、一つが何かの事情で楽しめなくなっても残りで必要な快楽を得られることが望ましい。

もちろん私の「健康」なんて、ごく近い過去に手作りしはじめた、脆い人工物でしかない。でもそれを堅持するよりほかに、私にできることはない。

特定の何かに過剰な情熱を注ぎたいという欲望は、きちんと抑圧しなければならない。あらゆる種類の興味や好意が大きくなりすぎないよう注意深く観察し、その芽を摘まなければならない。
休日出勤が多いのは仕方がないとして、平日五日のうち四日はまともな時間帯に家に帰って栄養バランスのとれた食事を作って食べ、八時間の睡眠を確保すべきだ。
それがある種の不健全さに基づいていると、重々承知の上で。

目の前の老いた人がまた、ふっふと笑う。

「一生恋愛し放題というわけか、それもずいぶんと素敵だ」

「それにしてもあなた、仕事を持っているんですから、今どき一人で生活するのに気合いも根性もないでしょう」

彼は可笑しそうにそう言った。
やれやれ、と私は思った。そういう意味じゃないんだけどな。


Nov 19

ときどき、同じことを二度言う。あ、今、繰り返した、と思う。既視感ではなくて、本当に二度繰り返している。人に、私いま二回言ったよね、と確かめたことがある。

繰り返すのはわりとどうでもいい内容が多い。独立した台詞のときもあるし、べらべら喋っていてその一部だけを二度言うこともある。いずれにしても短いことばだ。今日は「なんだかずいぶん冷えますね、雨だし」だった。
言っているさなかに、ああこれは二度目だ、と気づいている。でもなぜだか最後まで言う。

レコードの針飛びみたいなものだと思う。それがときどき起きるのは私にとっては自然なことなんだけれど、よく考えてみたら、そんな人はどうやら周囲にいない。

今は誰も気にしていないみたいだから、まあかまわないんだけれど、おばあさんになったらちょっと心配されそうだから、いやだな、と思う。少なくとも二十代半ばからそうだって、ちゃんと書いておかないと。


Nov 18

待ちあわせ場所で、「おつかれさまです」と声をかけた。
すると彼はふふんと鼻で笑い、
「おつかれさまって台詞、ほんと意味ないですよね。別に疲れてねーよって思う」
と言った。

言われてみれば、みんなが(私も)「おつかれさまでした」を挨拶がわりに使うのはなぜだろう。こんにちは、こんばんは、さようなら、ではどうしていけないんだろう。

さようなら、が避けられるのは少しわかる。
この世の大半の相手には、それきり会わなくてもおかしくはない。取引先の人なら明日担当が変わるかもしれないし、同僚なら辞めるかもしれない。
友だちだって、双方が同じくらい意志して会おうとしなければ、きっともう会わない(片方だけが意志したって、そのうちその非対称性に疲れるだけだ)。
恋人なんてもっとひどい。長年つきあっていて笑顔で手を振って、帰っておやすみなさいの電話をしたら大げんかになって、それっきり会わない。そんな話がそこいらじゅうに落ちている。
だからさよならはリアルすぎるんだ。see youとか再見とかじゃないと。

それならせめて「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」はちゃんと言おうと思う。
挨拶にはことばの意味がない代わりに伝統が必要で、「おつかれさまです」にはそれが欠けている。だからその無意味さが鼻につく。
伝統に裏打ちされた無意味さには逆らいにくい。様式美があるからだ。件の彼だって、いくらなんでも「おはようございます」と言われて「別に早くねーよ」とは思わないだろう。

そう思って、それ以来、相手が「おつかれさまです」と言う人なら合わせるけれども、自分からは使わないようにしている。


Nov 17

ちかごろ、複雑な利害関係を考慮するとか誰かのメンツを守るとか、そういうのが多くて、少し疲れた。
でもそういうことをしていると、まるでちゃんとした大人になったみたいで、なんだかうれしい。

いまだに「大人ごっこ」「社会人ごっこ」をしているような感覚がある。ほんとうは何か重要な資格が足りていないのに、誤魔化してちゃんとした人のフリをしてちゃっかり生きているような気分が。
もしかすると、それはわりと適切なあり方なのかもしれない、と思う。

ふだんの言動がたいへん子どもっぽい知りあいがいる。
彼はあるとき、すごくきりっとした顔で、実に適切なタイミングで、見事に正しい台詞を言ってのけた。
そうして彼は、その台詞の相手がいなくなった途端、へにゃへにゃと笑って、
「いま僕ちょうかっこよかった。大人っぽかった。立派な先生みたいだった」
と言った。正真正銘のおじさんなのに、妙にかわいいのだ。

そんなふうに、大人なんか「大人ごっこ」でいいんじゃないかと思う。
必要なときにだけ大人の顔をしていて、終わったらさっと取り外してしまえばいい。そうして、移り気な少年みたいに、反抗的な少女みたいに、かんしゃく持ちの小さい子みたいに振る舞えばいいんだ、と思う。

もちろん、他者への配慮は私的な人間関係でも必要で、それがなければ破綻するんだけれども、適当にそれを共有するのは、わりと楽しくて健康に良いことのような気がする。
子どもっぽさの出力の調整が上手なら、件の「立派な先生みたいだった」彼のように、ある程度公的な人間関係の中でも許容され、愛されさえする。まあ彼はちょっと極端だと思うけれど。

逆に、始終大人の、役割を持った立派な人であるような相手が、私は少し怖い。
職場では折り目正しい社会人であり、家に帰れば立派な夫や妻や父や母であり、常に周囲に配慮し、その場に応じた振る舞いを崩さないような人が。
あんまり強固な接着剤で役割をくっつけていると、剥がすときに中身が傷つくんじゃないかと思う。
剥がすことをしばらく忘れているとしたら、少し怖い。
剥がす必要が全然ないのだとしたら、なおのこと怖い。


Nov 15
猫派とか犬派とか聞くけど、私は無害なほ乳類ならおおむね寄っていって触る。

猫派とか犬派とか聞くけど、私は無害なほ乳類ならおおむね寄っていって触る。



近所の猫は、「しょうがないな、撫でさせてやるか」という感じ。

近所の猫は、「しょうがないな、撫でさせてやるか」という感じ。


膝の上に乗って寝ちゃう。

膝の上に乗って寝ちゃう。


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