see/pass you again

Apr 2

私の知るいくらかの男たちには、身体がほとんどないみたいだった。スポーツとセックスとそれから病気。それだけが彼らの身体のあるところみたいに見えた。私は彼らを軽蔑した。彼らも私も、身体そのものである。そんな当たり前のことも知らないで、別の存在みたいな気分でいる。私はその無知と無自覚と鈍感を軽蔑した。


2014/3/24(月)

 深夜に帰宅して咳をする。喉の奥からするするとおたまじゃくしが排出される。まだとても小さくて足も生えていないもの、ほとんどかえるに近いもの、しっぽが消えかけているものなどがあって、両手に受けるとちょうどいっぱいになる。肘と足で苦労して窓をあけベランダに出ておたまじゃくしを並べる。ぜんぶで八匹あった。みんな目をあけていてその目は大きい。透明なジェルで覆われているけれどもそれを剥がすのはやめた。水棲だからだと思う。ベランダに広げた段ボールの上にはおたまじゃくしのほかにひばりととかげがいて、それらのジェルは取り去った。しゃがんでつくづくと眺めても干からびているようすはない。手を洗い、大きい鍋と小さい鍋でお湯を沸かし小さい鍋に豆腐と味噌を入れまだ少し高価な茗荷を刻み冷凍ごはんをあたためる。さよりに塩を振ってグリルで焼く。大きい鍋の湯が湧いたところで空豆を莢ごと投入し湯から上げてそのまま冷ます。キャベツの外葉を剥がして捨て、中の葉を適当に毟り、芯を包丁で刻み葉を手でちぎる。刻んだにんにくと唐辛子をオリーブオイルで素揚げにしアンチョビペーストを落としすぐにキャベツを入れてざざっとかきまわしてミディアムレアで火を止める。空豆を莢から出し皮を剥いて、つやつやの緑色がかえるみたいにきれいだと思う。


Mar 18

2014/03/16(日)

 深夜に帰宅して電子レンジでパスタを茹で作り置きのボロネーゼをあたためていると喉の下に移動する圧迫を感じて反射的に手で押さえる。吐き気というものがほとんどないまま喉の粘膜をやわらかな布のようなものが撫でて数秒、手の中にひばりが落ちている。
 体調は五センチもない。雛だ。羽根をたたみ目を閉じ眠っているように見える。透明なジェルのような半固体で包まれている。キッチンペーパーでジェルをそっと除けても反応はない。死んでいるのだと思う。視界に白いノイズが入り軽い貧血と似た感覚がありすぐにもとに戻る。
 電子レンジが音をたてる。ひばりは動かない。ベランダに出てゴミに出すために畳んでおいた小さい段ボールを広げてひばりをそこに置く。ひばりは動かない。台所に戻り手を洗ってボロネーゼと春キャベツの中の葉をちぎっただけのサラダを食べ作り置きの冷たいジャスミン茶を飲む。胃には問題を感じない。


2014/03/17(月)

 深夜に帰宅し入浴ののちジャスミン茶をあるだけ飲んでベッドに入る。部署は違うがそこそこ仲の良かった女性が三月末で辞めるというので同じくそこそこ仲の良かった同僚五人で送別会をひらき彼女の好きなベルギービールをたくさん飲んだのですぐに眠りに落ちる。すぐに目覚める。喉の下に上昇する圧迫を感じる。胃の上から身体が押し開かれている感覚がある。やわらかな皮のようなものでからだの内側をなで上げられ私の肉とはちがう肉で押し開かれる。苦痛はない。少し気持ちが良い。反射的に半身を起こし両手でそれを受ける。苦痛はない。視界に白いノイズが入りすぐに消える。肘でスイッチを押し枕元の灯りをつける。
 手の中にはとかげがある。透明なジェル状の半個体に包まれ真っ黒な目がとてもきれいだ。体調は7センチあまり。ティッシュペーパーでジェルをそっと除けてもとかげは動かない。死んでいるのだと思う。しっぽの先までいろいろの緑色した小さなうろこが連続しているのを眺める。とかげは動かない。ベランダに出て段ボール箱のなかのひばりの隣にとかげを置く。


Mar 16

仕事で毎週飛行機か新幹線に乗って休暇としての週末から見捨てられているときにだけ私のからだを訪れる特別な麻痺。落下のように浮遊のように視界が変容し薄甘い吐き気をともない、世界から切り出されてひどく快適であって身を焼くように誰からも遠く遠く、私は追放されたのだと思う。追放されてとうの昔に忘れたかったもののすべてを忘れおおせたのだと。


Feb 26

 「PVどれだけありますか」という質問をされたけれども、私はPVを見ません。Google Analyticsは入れています。四回更新したら直近一ヶ月のユーザ数を見る習慣なので、PVや全体のことは知らないのです。
 企業や有名人が運営してばんばん更新するブログならPVは大切かと思いますが、うちみたいな週一回更新の地味なブログは「だいたいどれくらいの人が来てくれているか」を見ておけばいいんじゃないかと思っています。
 だから見なくてもいいし、もっといえば私は、PVが突発的にばーっと増えるようなできごとが、あんまり好きじゃないのです。

 その数字の意味するところは「うちのブログにお客さんが来てくれた」じゃなくて、「大勢の人がソーシャルメディア的なもので話題になったページへのリンクを踏んで帰った(それがたまたまうちだった)」です。そんなのちいともおもしろくないや。だって、話題になるのって、「気づきを得た」とか「泣ける話だ」とかって煽られたときなんだもの。

 気づきとか感動とかが嫌いなのではないですよ。私だって気づいたり感動したりしたいよ。でも大勢がおんなじものをおんなじように消費すれば(まさに消費という感じがする)気づきだの感動だのという快楽を得られるなんて、そんなわけないじゃん。
 もし得られるとすると、快楽を与えたのはコンテンツじゃなくて、消費者の中に存在するファンタジィです。コンテンツは一定の刺激でユーザの中のスイッチを入れる自慰の装置として機能します。つまり、「泣ける話」は感情のポルノなのです。それでもって、その消費のされかたがひどい。


 ポルノはひそやかに消費するものです。そして「これはうそっこだ」とわかっていて消費するものです。現実にはそこに示されているようなことはないのだけれど、でもそのファンタジィにぐっとくるから、作られたそれを、自分の楽しみとして鑑賞する。そういうものでしょう。
 けれども「泣ける話」はね、実話のほうがいいんですって。だからうちのブログの「泣ける」系の話も実話として受け取る人が少なくないようです。いい話っぽいもので気持ちよくなってそのそぶりを人に見せてもっと気持ちよくなって、「いい話」が事実じゃなかったらその価値が落ちるんだと思っている。なんという思考停止。なんという様式のなさ。なんという恥じらいの欠如。これが頽落でなくてなんだというのか。
 
 私のブログエントリを「(ラクに)泣ける(そして泣いている自分が良い人みたいに思える)実話」とか「(ラクに得られて優越感を持てる)気づき」とか、そういうものとして消費することは、とくに禁じられていません。無料で公開している文章なので、どう消費しようが読んだ人の自由です。ただ私はそのような消費を声高に恥じらいなくおこなう人々を好まない。
 あまつさえ、私のブログの別のエントリがその消費傾向に合わないからといって、「今回のエントリ意味わかんないんですけど」「ネタ切れなら書かなくていいですよ」などと彼らは言うのです。つまり、私の文章を自分に対するサービスだと思っているのです。含羞もスタイルもない連中らしい発言だなと思って、私はそれを黙殺します。
 黙殺しても腹は立つので、黙殺対象にはあんまり来てほしくない。だから私は、PVが突然増えるようなことが、あんまり好きじゃないのです。


Feb 4

 鰤の頭が無造作にぶつ切りにされてたまたま目が上を向いていた、その目と自分の目が合ったから、プラスティックのパッケージを同じくプラスティックの籠に入れる。美しい心の持ち主みたいな澄んだ目とそのまわりの切断された輪郭線から類推される大きさできちんと成熟したまともな鰤だとわかる。東京のスーパーマーケットでは出会ったらすぐ籠に入れるべきものだ。豪快なかたまりが三つ入って二百円もしない。
 踵を返す。ピーマンとしめじだけをしかたなしに選んだ生彩を欠く青果の場に戻る。大根は今ひとつ発育のよろしくない、もちろん葉もろくについていない、そのくせ安いともいえない、ぼんくらな連中しか残っておらず、やむを得ずそれを籠に加える。この世界は良い鰤アラを手に入れた平日午後十時半にすてきな大根を残しておいてくれるほど私に甘くはない。

 台所で生姜を点検し皮を剥がす。たわしで軽くこするだけで済む育ちのいい生姜ではなかった。薄切りから千切りをつくる。鰤によっては生姜なしでも感じよく仕上がるけれども、今日のは持ち運んだらパックの内側が鮮血に染まる血の気の多いやつで、血の色は申し分なく鮮やかだったけれども、それなりの下ごしらえと薬味を必要とする。
 ぐらぐらに湧いたたっぷりの湯を、薄い塩をまとった鰤にかける。向きを変えてざばざばかける。そのまま冷たい水と指先で癖の強そうなところを洗い落とす。なにもかもすばやくやらないと台無しだ。大根の皮を厚めに剥く。自分だけが食べるのだから面取りなんかしない。
 湯がもう一度湧く。料理用に買うのだけれど料理酒より安い日本酒をざばざば入れる。黒砂糖をひとかけ落とす。鰤と大根と生姜をぼんぼん投げこむ。煮る。醤油をどぼんと入れる。料理をもう一段落レベルアップしたいのだったら計量するしかないね。三年ばかり前にそう言われたことを思い出す。それだから、月に一度もありやしないけれども、計量とやらをする日をつくるようになった。
 でも今日はしない。めんどくさい。今日は冬の日の週に一度はやる奔放な「ぐつぐつの日」だ。鍋いっぱいになにかを煮て延々とそれを食べる。レシピなんか見ない。豚ばらと白菜を交互に重ねて酒と塩と白菜の水分だけで煮たもの、残り野菜をみんな細かく刻んで入れるコンソメスープ、ヨーグルトに漬けた骨つき鶏肉とトマト缶のカレー、食べにくいほど大振りの野菜とソーセージでできたポトフ、年に一度だけ練り物のいいのと茹で蛸を買ってつくるおでん、スパイスと香味野菜を正しいレシピの二倍つっこむ粗野なボロネーゼ。鰹出汁だけで炊く蕪は好きだけれどすぐにぐずぐずになってしまうから鍋いっぱいはつくらない。

 封筒に銀杏を入れてレンジで加熱し塩を振ったのと葉の縮れたほうれん草のおひたしをつまみながらちびちび飲む。煮物は放っておく。私は、鰤大根で大根の下茹でなんかしないし、鍋につきっきりで灰汁を取ったりもしない。魚や野菜どころか醤油の灰汁まですくいきった煮物なんかなにがおもしろいのかと思う。おまえはこれを食えと皿に残された血合いと魚の鰓の隙間がちらりと頭をかすめる。あいつらはなにもわかっていなかったんだと思う。私は、血の滴るアラだってちゃんと細工して美味しく食べる。台所に立ちつづけて誰かのために灰汁を掬いつづけたりしない。私は粗野に、のんきに、優雅に生活して、その九割九分九厘で憎しみの対象を忘れている。

 小説がひと段落したところで覗いてみると鰤と大根と針生姜(というほど細くもないけれども)はひととおり煮えている。煮汁が澄んでいるのでにっこり笑ってスープみたいに少し飲む。悪くない。実に悪くない。火を止める。大根は明日になったらもっとおいしくなるだろう。


Oct 9

 今にも血を吐きそうな大仰な音の咳が出て止まらない。夜明けに目を覚ましていっしょうけんめい息継ぎしながらたくさんの咳をしてそれからまた眠っている。眠る前に服む咳止めが夜明けに切れるのだろうと思う。

 春先にもやはり咳が長引いたので、重度の花粉症が喉にも影響しているのではないかと思うけれども、秋の花粉症はもともと春ほどではないうえに、今年はほとんど症状が出ていない。くしゃみも出ないし、目もかゆくならない。コンタクトレンズを平気でつけている。
 本来苦しいはずの鼻も目もすっきりしたもので、喉ばかりがひゅうひゅうと病人の音をたてていて、始終微熱を発し、上着を羽織ると暑く脱ぐと寒く、ひゅうひゅう鳴っているところの少し下にいつも、薄い吐き気が貼りついている。

 ばちが当たったんだと思う。
 このところいいことがいくつかあって、ずっと心配していたことが消えたりずっとやりたかったことをこの先も続けられることが決まったりした。私はもちろんたいそう喜び、幾人かの人に祝杯をあげてもらったけれども、それはそれとして、私の中には達成だとか成功だとかに対する呪いががっちり埋め込まれており、だから「ばちが当たる」のだった。達成を悪しきものと判定するコンポーネントのはたらき。自分で自分の成果をだめにすることさえある。私はこれを「だいなし病」と呼んでいる。

 もう大人なので、だいなし病は怖くない。不適切な心的トレーニングのもとにあった時期があるというだけの話で、地道な達成を積み重ねて少しずつ、平気になった。微熱にうかされて歩き回っていると、足の裏と地面のあいだに三センチばかり空気の層があるような気がする。
 喉はひゅうひゅう音をたて、週末が来ると私は寝こんで、週明けには平気な顔でまた働く。喉の病気の音もからだの熱も、少しも変わっていない。


Aug 31

何かひどく悪いことが起きた気がする。内容は不明だ。ほんとうはそうではない。私はそれを知っているし、反撃だってした。言ってやった、ぜんぶ言ってやった。そのように私は思い私は爽快で憂いがない。私はどうしていまひとりなのかしらと私は思う。こんな夜に限ってどうしてみんな私に連絡をくれないのかしら。私はこんなにも完全に陽気で気前が良くてなんでもしてあげるのに。そう思ってそれから、「みんな」なんてどこにもいないのだと思う。先週の旅行は嘘、昨夜と今日の正午のメールは嘘、明日の食事は嘘、来週の約束は嘘、来月と来年と年をとったあとの約束は嘘。またね、またね、また会いましょう。それらがみんな嘘だから安心して私は、憎しみを吐きだした自分を撫でまわしてひとりきりで眠りに就く。嘘?そうだね、それも嘘。


Aug 16

 深夜に帰宅して立てると私の腰ほどの高さになる大きな箱を持ち上げる。エレベータに乗る。大きな箱にはそれより少し小さい箱が入っておりその中には鉄の棒が二本入っている。集合住宅の玄関ホールにそれを置きシールを貼る。

 管理人に尋ねたら粗大ごみを置いていいのはまる一日だというので夜に置くことにした。自治体の委託を受けた事業所による私の大きい箱の処分費用はひとつあたり300円で、一度回収を逃したら電話がかかってきて「ああ、それじゃあまた申し込みしてくれたらいいですよ」と言われたので驚いた。申し込みをして回収に向かってきたのだから、出していなかった人間からお金を取らないでだいじょうぶなのかと思う。そもそも300円でいいのかと思う。区民税を払っている甲斐があるというものだ。プールも400円で入れるし。

 大きい箱は以前住んでいた部屋のクローゼットの床に置いてたたんだ服を入れていたもので、引っ越して服を収納してみたら作りつけのものにぜんぶ入ってしまったので要らなくなったのだった。その季節のものはみんなクローゼットにかけて、小さい箱に小物やなにかを入れて、季節はずれのものをベッド下の箱に仕舞う。ここにみんな入っているのと遊びに来た古い友だちが言うのでそうだよとこたえると減ったねえと言う。昔はもっとあったと思うよと言う。そんな気もする。着るものをそんなに買わなくなった。捨てる量がそれを少し上回って、気づいたら減っていたのだろう。

 そんなにものを捨てるのは暴力衝動の一種なんじゃないの。かつて人から言われたせりふを私は乾かしてきれいにたたんで仕舞ってある。それを取り出してつくづくとながめる。久しぶりに袖を通す。何度も洗濯してやわらかくこなれた、けれどもかすかにもとの繊維のにおいをのこした生地が私の肌を覆う。


 帰宅して立ったまま冷蔵庫をあけ、なにもないことに少し安堵しながらミネラルウォーターをベットボトルから直接のむ。スマートフォンからヘッドフォンを抜いてPCに挿し、同時にパワーキーを押して、スマートフォンのLTEに接続する。接続したスマートフォンはもう用なしだから、電源を供給してやって放り出す。スマートフォンで聴いて帰ってきたいくつかの音楽を(曲はみんな同じだ、なるべくたくさんの人間が歌っているもの、ほかに基準はない)思い出しながら他のいくつか(もちろん同じ曲)を聴く。下手なところをソフトウェアで切って捨てて調整する。

 それは彼の個人的な楽しみだ。誰かのバイオメトリクスを血祭りにあげる。切り貼りして加工して野放図なインフラストラクチャとしてのウェブにアップする。音楽は人々の気に入る。彼はそれを作る。彼はそれがとてもうまい。昼間のあいだ、それでもって口を糊しているほどに。
 けれども昼間の人間たちは嫌いだ。権利を主張するから。自分は著作権と肖像権を有する生きた人間だと、代理店を通じて主張しつづけ、いつまでだってそうしているから。彼はそのように思い、それから、そんなつまらない思考を退けかけて、なにかに使えないかな、と思う。彼の独白と彼の声帯は彼の所有するいちばん気楽な素材だ。

 彼は権利を放棄したかわいそうな人間たちの声を集める。人間たち?おそらく。加えて彼は機械音を集める。おそらくは機械音。彼はその音のあいだに呼吸のように聞こえる間をあけることに三十分をついやす。それからかわいそうな人間たちの声のトーンとそれを合致させるための調整にもう少しの時間を提供する。
 知らない人。知らない機械、あるいは楽器と集音器。つまりデータ。その権利は放棄されている。彼はにっこりと笑う。東京に無数に存在するやけに新しいアパートメントの、きわめて匿名的な一室の隅の、外出から帰ったままの姿の、ねずみみたいに陰気な男。気持ち悪い、と彼はつぶやき、それを録音する。気持ち悪いな、おまえ。それからいくつかのことばをささやく。
 彼の声は彼の素材のひとつとして彼の夜の遊びに消費される。

 十四人のヴォーカルが選出される。彼はそれらの声を洗う。単純なメロディラインをそれでも外したポイント(あまりに無能すぎる!)、音の合う相手(の声)と合わない相手(の声、のデータ)。彼はそれをときに十秒の単位で雑多に、ときにコンマ一秒の単位で切り貼りする。
 切り貼りだけが彼の娯楽だ。美しいと彼は思う。あしたはどう思うか知らない。きっと忘れてしまうだろう。

 彼はそれをアップロードする。一度だけ彼はそれを聴く。悪くないように思う。けれどもそれはすぐに忘れられる。自分のためだけの遊びはいつもそうだ。誰もその主体を知らないし、思い浮かべることもない。インターネットで他人が消費するとずっとずっとあとに彼はその記録を見て少しうれしい。定量的な、肯定だけの抽出。彼は眠る。明日もろくでもない他人の声と音を切り貼りして、いやしい食事をむさぼるために。


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