see/pass you again

Nov 8

大学生のとき、学部の中をゼミのメンバと歩いていて、サークルの先輩とすれ違った。私は会釈した。彼も会釈した。
「何そのイヤそうな顔。嫌いな人なの?」
横にいた同級生が訊いて、私は嫌い、と答えた。
「だって、あの人、うちのサークルの飲み会で『こんな大学はバカばっかりで話にならない』とか言っちゃうんだよ。私ここ大好きなのに。むかつく。そんなに嫌なら出てけ。大喜びで送り出してやる」

教官が振り返って言った。
「当ててみせようか。そういうこと言うやつは、だいたい小学生のときに成績が良くて、有名どころの中学か高校を出てる。だからこんな大学に来るような身分じゃないと思ってる」

当たってますねえと私は答えた。

「ここの学生がアホだとは思わないけど、探せばアホもいるだろう。でも東大に行ったってアホはいる。どこの大学に行ったってアホがゼロということはない。少ないところと多いところがあるだけだ。大学入試っていうのはその程度のフィルタでしかない」

「あ、この場合のアホっていうのは自分よりあからさまに知的能力が劣っている、と思える相手のこと。そういうこと言うやつってだいたい自分が基準のピラミッド構造で他人を把握してるもんだからさ」

「で、凄い人もどこにでもいる。多いか少ないかはあるけど、探せばいる。もしかすると性格が悪かったり、能力のバランスがとれてなかったりして、そうは見えない人もいるかもしれない。でも、特定の部分で自分よりずっと頭の働きが優れている人は確実にいる」

「それなりの人数がある組織やコミュニティにいれば、自分よりどこかが知的に優れた相手が全然いないってことはほとんどない。だから自分の周りがアホばかりだというやつは現実が見えていない。もしくは」

「もしくはアホばかりだと思っていれば心が安らぐから、あえて誰の能力も理解しない。半ば故意に人を見下しやすい環境を選ぶことさえあるかもしれない」

「その状態から降りずにいると将来は自動的に不幸になる。自分でそれに気づいて不幸ルートから降りるやつが大半なんだから、そんなふうにあからさまに罵るもんじゃない。了見が狭い」

それから十年ばかり経って、いろんな人を見て、「そうかな、不幸ルートから降りない人だって、けっこういるんじゃないかな」と思う。

私はいまだに了見が狭いので、当人の優越感のために、私の好きな人たちを含む周囲の人間をまとめてアホ扱いするような輩がいれば、口をきわめて陰口をたたく。
そうして、会社の誰それは凄く仕事ができるとか、うちのゼミの学生はできが良いとか、新しい取引先の人はとても頭が切れるんだとか、そういうことを嬉しそうに話す人たちと仲良くして、楽しく暮らしている。


Nov 7

外国人の知人が「茶室の入り口はなぜあんなに小さいのか」というので、私はしたり顔で「刀を持って入れないように。茶道はもともと武士のアートだったからです」と答えた。彼女はおお、と呟いてメモをとった。

茶道に興味があるのではない。高校の文化祭で茶道部の点てたお茶を飲んだことくらいしかない。この知りあいが「今度お茶に行く」というから、予習しておいたのだ。

知りあいの(お箸の国の人でない)外国人たちがあまりに正確に箸を持ち、同席する日本人の手つきをじっと見るものだから、仕方なく自分の箸使いを矯正した。
箸で魚の小骨を剥がせる人に指導を依頼した。食事のたびに地味に努力した。正しい方法を会得して間がないので、長時間箸を使っていると中指が攣る。

日本人、あるいは日本にきて長期間経っている外国人が相手なら、私は平気で日本文化に対する無知を晒してにこにこ笑っている。畳の縁も踏んじゃう。

でも、今年日本に来ました、みたいな人に対しては、ちょっと無理をしてでも、自分が「正しい日本人」であるかのように振る舞う。
見栄だ。何に対して張っている見栄かは、よくわからないのだけれど。

もしかしたら、あの気の良い日本好きの外国人たちは、私が「正しい日本人」のふりをするためにけっこう頑張っていることを、ほんとうは知っているのかもしれないな、と思う。そうして、日本的なものを見てキャーキャー喜ぶガイジンの役回りを楽しんでいるのかもしれない。


それは言い訳だ、そんなの前からわかってる、ただの言い訳だって知ってる、あなたは、自分で思っているよりずっとずっと愚かだ、可哀想に、そんなに馬鹿で可哀想に、あなたの考えることなんてちょっと悧巧なやつには見え見えなんだ、ねえ、好きだって言ってよ、餌を欲しがる野良犬がひっくり返って腹を見せるみたいに、僕のこと身も世もなく好きだって言ってよ、前に言った?何回も何十回も言った?何それ全然知らない、覚えてない、僕は、ずっとそれを待ってる、今ここで言ってよ、疑いようがないくらいはっきり言ってよ、そうしたら、僕はあなたに服従しよう。



言い訳を必要としない恋は、ただの狂気だ。そんなものを、認めるわけにはいかなかった。



恋は膨大な言い訳の上にかろうじて成り立つ。


橋本治


最近仕事がつまらない、と知りあいが言う。
なんでと訊くと、よくわからない専門用語をごにゃごにゃ並べる。

要するに、彼の業務にはいくつかの種類があるんだけれども、最近はそのうち一種類ばかりやる羽目に陥ってつまらない、というようなことだった。
その一種類であることの何がいけないのか。難しいのか。それとも簡単すぎるのか。
そう訊くと彼はこう答えた。

「難易度は丁度良い。退屈にもならないし、途方にくれることもない。
だけどその仕事は、熟練すれば手順が全部見えちゃうんだ。不確実性とか偶発性みたいなものが全然ない。おお俺こんなことやっちゃったよ、みたいなことがない。それは僕のせいじゃなくて、その方法を習得している人にとってはみんなそうなんだ」

長いな、長いの駄目だな、格好悪い、と彼はつぶやき、それから言い直した。

「テクニックばかり使ってると肩が凝る。アートを使う場面がほしい」

なるほど、と思った。
たしかに、多くの職業がアート(芸術ではなくて、学芸とか技能とかのほう)とテクニックの両方を要求する。テクニックだけだと肩が凝るかもしれない。アートだけでも疲れそうだけど。



きっとデビーはこれでいいのだ。

自分がそう思っていることを他人に知ってもらう必要がないほど、これでいいのである。

THE BRADY BLOG:もう一人のデビー

去年まで、近所の大学で臨時雇いの学内SEをやっていた。
引っ越した今でも、その研究室の教授から「相談しながら作業してもらいたいから、うちの大学まで来て」(新幹線で!)というメールが来る。
難しいことをするわけではないから、もっと近くにいる人を雇えば良いと思う。

そう言うと教授は、
「やりたいことを話してわかってもらうのがめんどくさい。わかってくれないし。あと、ほんとのエンジニアの人はよくわかんないこと言って怖い」
と言う。
悪うございましたね、ほんとのエンジニアじゃなくって。

この教授は内気なのではない。むしろ開放的すぎる人格だ。
それでも怖いというのは、たぶん軽いテクノフォビアなのだろう。日常的にPCを操作したりブログを書いたりしていても、自分がハンドリングできない領域に入った途端、理不尽な忌避感が作動する。

こんなにもみんなが機械を使っているのに、けっこう多くの人の中に、「よくわからない機械への忌避感」がしっかりと根を張っている。だから「よくわからない機械を駆使する人」もついでに避けられてしまう。

IT業界の人が想定する専門性のはるか手前で、彼らは「いやだな」「こわいな」と感じる。
私が件の教授にとってOKだったのは、「難しいこと言わない文系の人」として認識されたためだ。

SEになる人は、とくに売りになる技術がないんだったら、「専門家じゃない感じで相手に安心感を与える」という路線を考えても良いかもしれない。


Nov 3

美術館に入ると、やけに精巧な、そして巨大な、おばさんとおばあさんの中間くらいの像が立っていた。ロン・ミュエクだ。

私のあとから、像と同じくらいの年代の女性と、その娘という風情の二人連れが入ってきて、それを見るなり、同時に吹き出した。

気持ちはよくわかった。可笑しいから笑うのではない。名付けようもない感情が閾値を超えたから笑うのだ。

個人的に、芸術コンテンツにはそういう経験を求める。つまり、名付けようのない、きちんと整理できない感情的な経験みたいなものを。
たとえばこのあいだ「空気人形」を観たんだけれど、私は空気人形がシュウ ウエムラのカウンタでお化粧してもらうところでぼろぼろ泣いた。
最近やけに涙もろいので、映画はひとりで観ることにしている。でも、それにしたって泣くところではない。
別に感激したわけではない。悲しくなったのでもない。自分でも意味がわからない。
そして、意味のわからない経験をこそ、私は求めているのだと思う。

意味のわかる世界にずっといると、私は息苦しくなる。あるいはちょっと元気がなくなる。
もちろん私たちは、コントロールできない部分や道理にあわない部分を意図的に排除して平穏な生活を手に入れている。
でもそうじゃない部分は確実に存在する。私たちのなかに、私たちの外の世界に。
芸術というのは私にとって、小さい窓をあけてそれを見せてくれる装置だ。


今の仕事では、一定のアウトプットを出せばそれなりに褒めてもらえる。足りないのは駄目なときの慰めだ。

大学院にいたころは、泣きつくと確実にやさしい言葉を返してくれる後輩がいた。大変ですねとか大丈夫ですよとか、それはひどいですねとか。
上品で綺麗な女の子にそう言ってもらうと、それだけで気が晴れた。どういうわけか、そういう相手は同性のほうが良いのだ。それも同年代ではなくて、年上か年下の、適度な距離のある相手が良い。
今はそういう人がいないので少しつらい。

同僚は「こうすれば解決する」と励ましたり提案したりする気質だし、あとは上司と学生だから、泣き言の対象にはできない。よく会う友だちも励まし・提案型で、無条件慰め型の人はいない。

成果に応じた褒め言葉と現実的な励ましと具体的な提案があればOKじゃないか、と言われることはわかっている。でもそれって「ごはんがあるからお菓子は要らないでしょ」っていうようなものだ。

昔、どこかの作家が、煙草について「からだには悪いけれど、心には良いの」と言っていたけれど、無条件の甘い言葉は「心に悪い」。甘いものには中毒性があるから、あっというまに太る。ビタミンもミネラルも繊維も入っていない、悪いお菓子だ。

でもほしいな、甘いものほしいな、と思う。


Nov 1

「場所が確保できないなら、機能を他の場所に移転させ続けて維持すれば良いのです」
と彼は言った。
「特定の機能を特定の場で維持しようとするから不可能だという話になる。探してみれば、一時的に遊んでいる場はわりあい簡単に見つかる。常時フル活用されているところなんて、そんなにないんですから。私たちがすべきことは、それをうまく回すシステムを作ることです」

何の話かというと、倉庫を設置する場所がないからどうしよう、という話だったんだけれど、これはずいぶんと応用の利く物言いだと思った。


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